物語性を感じるゲームが好きすぎてたまらないので「猖獗少女病」「ダイナスティ」について語る
2018/02/25
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どういうゲームが好き? と言われると、私は「物語性」を感じるゲームがとにかく好きだなと応える。
メカニクスだけでいえばドラフトや拡大再生産が好きだし、フレーバーならファンタジーや工場が大好き。けれどもそれらを遊ぶときに、どのゲームにも私は物語性を求めるところがある。
物語性、と言うととなんともフワっとしているので、レビューなどで書く時は「テーマとルールの合致」とかと表現したり。それはゲームを遊ぶ上で数ターンにわたって私が行った行動が文脈となり、流れになり、歴史になる瞬間。勝ちを目指していた行動が、ふと気づくとそこに実際に人の動きが見える瞬間。
例えばロココの仕立屋では、貴族たちのために服を作る。売れば金になる、レンタルすれば豪華なドレスで着飾った貴族たちが舞踏会に出席する。ここでふと見渡すと、私の服を着た貴族は最上階にしか存在しない。ここで私は思うわけだ。「私は高級貴族にしかドレスを卸さない超高級ブランドだぞ」と。「貴方の所はいろんな所に服をレンタルしてるね。ドレス界のユニクロかい?」と。
たまに下の階に貴族を配置しては「まあ、下々のものはこんな狭いお部屋でワインを楽しんでいるのね」なんて感じである。別にこういった事を考えたり喋ったりするのは、元からそう思ってやっていたわけではなく、勝とうとしてやってきて振り返ってみると、確かにそこには流れがあり、物語が生まれている。わたしはそれに乗り、勝利を目指しつつも、その流れを楽しむのだ。
大げさに言ってしまえば、それぞれのプレイヤーが行った行動がゲームとしての流れ、文脈となって、そこに存在する人々を、営みを生み出す。私はそれがたまらなく楽しい。
じゃあマイス&ミスティクス、アンドールの伝説といった元からストーリーラインのついた作品はそうではないのか? というと、それはそれで面白く楽しめ、もちろん物語性を感じるのだけれど、やはりちょっと違う。これらの、いわゆるRPG系だったりアドベンチャー系の作品は、あくまでも用意された物語があり、それを受け取り、楽しむという楽しみ方になる。もちろん、それはそれで大好きだが、今回の話とは筋が違う。
一方でそれが無いボードゲームでは、それぞれのプレイヤーがそれぞれの意図によって起こした一手一手が物語を生み出す。私達の眼前に発現するのはあくまでボード上に存在するコマであり、手元のリソースであり、勝利点というそれぞれの「点」でしかない。それを想像で補っていくと、確かに各プレイヤーの手元には何かが息づいている。
皆が意図していようと、していなかろうと。ゲームに参加し、遊んでいる。ただそれだけで流れ、物語が生まれている。私はそれがたまらない。愛おしいとさえ言える。
「ダイナスティ」は物語性の塊だ
2016年05月メビウス便ボードゲーム「ダイナスティ」レビューと感想|Board game every day
さて、ダイナスティの話である。ボードゲーム「ダイナスティ」は貴族達の勢力争いがテーマの作品であり、それぞれのプレイヤーが、それぞれの貴族を各地に送り込みその血族の強さ、政治力を競っていく。
本作は非常に運要素が強い。勝利点になるボーナスカードは山引き、結婚した時に得られる特典はダイス、手番で使うアクションカードも山引き、船に置かれる物資もまた、ランダム。
ランダムにランダム、てんこ盛り。これだけ運要素が重なっていながら、ルール量も中々のものとなっている。ゲーマー向けとは言いがたい。かといえば初心者向けでもない。重量級ゲームであり、わりと無骨に勝利点を獲得するエリアマジョリティタイプのゲームでありながら、ゲーマーズゲームではない・・・。この不思議なゲームは、けれども「物語性」という視点から見た時にその魅力がよくわかる。
いや、本作は運の要素にどこまでアクセスできるのか、という意味ではゲーマーズゲームであるとは思う。が、これ以上の話は脱線になるのでまたの機会にする。
さて、ダイナスティはこと「貴族とその血族」というテーマ? フレーバー? において抜群の物語性を持っている。そもそも本作のルールブック日本語訳にはフレーバーテキストが一言も書かれていない。マップもヨーロッパなのかイギリスなのか何年代なのかもよくわからない。私はゲーム中にそういった地理歴史にあまり興味を持たない。
それなのに何故ここまでの物語性を感じてしまうのか。それは先述もしたが、対象にあるルール郡であろうと考える。なんというか、ゲームに本気であればあるほど、そこには強く物語性が出てくるものだと私は思う。
ゲームに必要な手札はその時の政治状況をあらわす。なんでも出来るわけではない。その時、その時に取り巻く状況は違うのだ。
船に乗る物資もそうだ。周辺地域の状況によって運ばれてくる物資は違う。そしてそれを一人で全て取れるわけではない。他の貴族とも金を出し合っている場合があるし、税として取られる場合もある。これも政治、お互いはライバルでり、敵であるが、共存しなくてはならない。利益を考えて行動するべきである。
そして政治といえば婚約である。どれだけ力があろうと、跡継ぎは必要である。それも、同じ血族ではいけない。他の血を入れ、さらなる拡大を目指す必要がある。そうなるとお互いの血族への財産の分与が発生するのだ。
それは子供が生まれるかどうかにまで話は発展する。そうやってそれぞれの思惑が交差し、敵対し、共存してゲームはエンディングを迎える。
こういう一つ一つの要素が流れとなり、プレイヤーたちの没入感となり、楽しさとなる。テーマとルールの合致、物語性。重量を感じるルールは、その実本作の大きな魅力となり、必要不可欠であると私は思う。
確かに運の要素は強いかもしれない。だが、実際、そういうものじゃないか。子供が生まれるかどうかなんてわからない、船が狙った物資をもってくるかはわからない、行いたい政策が出来る状況かどうかわからない。わからない、わからない、わからない。本作、ダイナスティはその「わからない」をきちんとゲームに落とし込んだ、物語性を強く主張する作品だと考える。
「猖獗少女病」の話をしよう
2015年ゲームマーケット出品同人ボードゲーム「猖獗少女病」レビューと感想|Board game every day
「猖獗少女病」だ。本作は同人作品である。「ManifestDestiny」というサークルの作品で、どういうゲームかと言うと、量子的ハンドマネジメントゲームである。何を言っているのかまったくわからない。
本作は、少女たちが異能に目覚める「開花」という現象が起こる世界が舞台。そんな中でとある勢力と少女たちとの抗争の最中、ある少女の能力が開花しそこにいあわせた全ての者の記憶が一時的に欠落してしまう。自分は一体誰なのか、そしてその目的を達成できるのかーー。というフレーバーとなっている。
ゲーム的に説明すれば、自分の場札を作っていき、一番多いスート、つまりキャラクターが自分の役となり確定する。それぞれのキャラクターに設定された点数獲得方法によって勝利点数を計算して、一番勝利点数の多いプレイヤーの勝利となる。
例えば「貉藻チガヤ」が自分の場札に一番あった場合、私は「貉藻チガヤ」になる(あえてこう表現する)。「貉藻チガヤ」はすべての場札に「貉藻チガヤ」がいればいるだけ点数が入る。ライバルとして他にも「貉藻チガヤ」を集めていたプレイヤーがいたが、私の方が数が多かったのでこのライバルは「貉藻チガヤ」ではなく他に多かった「御蓼ニゲラ」になってしまった。これは勝ったな、と思ってたら他のプレイヤーが「禊萩エンジュ」となっていて、こいつは場札に「禊萩エンジュ」が居るプレイヤーから勝利点を奪っていってしまう。これによって勝利点の変動が起こり勝者は「禊萩エンジュ」になってしまった。
・・・という具合だ。
ようは、本作は自分が最終的になりたい「キャラクター」に当たりをつけつつ、そのために準備をしながら場札、手札を調整するゲームなのだ。そして他人がなりたいキャラクターを推測し、邪魔をし、誘導し、自分の有利な盤面を形成する。その水面下の戦い、カードによるやり取り。
私はこの勝利点計算だけを抜き取ってもゾクゾクしてしまう。そして振り返り、盤面を見てみると、そこに少女たちの息遣いが聴こえるようにも感じる。
最初の数ラウンドで「貉藻チガヤ」は私の手札に来た。だから私は「貉藻チガヤ」になるために、そして勝利点数をさらに伸ばすために工作を図る。しかしそれと同時進行で、「禊萩エンジュ」が暗躍しており、種を巻いていたのだ。勿論、他のキャラクターたちも、それぞれの思惑によって。いずれかのプレイヤーが担当する事となったキャラクターは勿論のこと、その影で埋没していったキャラクターにも物語ができている。
私は物語性はプレイヤーたちの意図、一手一手から想像されると語ったのだけれど、本作から感じる物語性はまたたまらないものがある。本作も結局のところはプレイヤーの意図によって組み上がったゲームの流れが物語性が作り上げられるのだけれど、それぞれのキャラクターに設定されたフレーバー、量子的に役が確定するというルール、そして量子的だからこそ起こる最終地点からの逆算的振り返り。それが見事に合致し、フラッシュバック的に組み上げられる一つの、それこそちょっとした小説を読んだ後の気分さえ感じる強烈な物語性。
そこには確かに「貉藻チガヤ」が愛を広め、「赤四手ツツジ」が既成事実を作り上げ、「禊萩エンジュ」が暗躍し、「犬槇ネム」が顔を覗かせる。ただただゲームを遊んでいたプレイヤーたちだけれど、その水面下では、それぞれのキャラクターが、それぞれの意図によって動いてい「た」物語が出来上がってい「た」。量子的に、逆算的に作り上げられる物語。私が勝手にその流れを組み上げ、読み上げ、感慨深く満足する。愛おしいと感じる。それがたまらない。
今遊んだ、この人達とだから生まれた物語がここにはあり、それは唯一無二。だからといって皆にこの物語を感じろとも思わない。感じたい人だけが感じたら良いなと思う。私にしか見えない物語で、ここで終わる物語なのだ。そう思うと、何度もいうようだが、本当にたまらないのだ。
ぜひ、「猖獗少女病」を遊ぶ機会があれば、そのゲーム自体のフレーバーテキスト、キャラクターに設定されたフレーバーを読みつつゲームを遊んでみてほしい。「ダイナスティ」を遊ぶ機会があれば、手札に、ダイスに一喜一憂しそこで実際何が起こっているのか想像を巡らせてみてほしい。「物語性」という視点で今までゲームを遊んだことがないなら、ぜひとも遊んでみてほしいと思う。