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ノンオブラートレポート ― メカニクス「ワーカープレイスメント」ルールの持つ絡みと戦略性の提供

   

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「ワーカープレイスメント」というメカニクスは、昨今のゲームシーンに非常にマッチしたルールをしていると考える。

ワーカーを配置して他が取れないようにする、という陣取り要素をアクション処理に適応することにより、手番行動自体に戦略性を付与し、ゲームとして、一定のゲーム性を提供することができているからだ。

直接攻撃、仕事、強烈なにらみ合いから、緩やかな指し合いへの移行

あくまで個人の考えではあるけれども、昨今のゲームルールは他人の資源を奪ったりする「直接攻撃」や、トッププレイヤーを抑えるために誰かがその邪魔をする「仕事」、そしてどちらかが動いたらその時点からゲームが致命的なまでに傾くといった「強烈な差し合い」から、緩やかな差し合いへと移行しているように感じる。

1つ1つの小さな正解を積み上げて、最終的にはその積み上げた量で勝敗を決める。

いくつもの点数獲得の条件や種類を設定しておいて、それらを累計して点数を獲得する。

思うに、直接攻撃や仕事といったゲーム要素は、どうしてもそれで気持ち的にネガティブなダメージもプレイヤーは受ける。だからこそ仕返しをしたり、勝利したときの楽しさ、1つ1つ戦略を組み立てて達成できたときの嬉しさはあるのだろう。あるのだろうが、それがやっぱり嫌な人がいる。

いわゆるゲーマーズゲームがどんどん増えてきて、とにかくゲーム自体もプレイヤーも多様になる中で、ほぼ初心者のプレイヤーがアグリコラやテラミスティカといったルール量としてもゲーム難易度としても高いものを遊ぶことも多くなった。

致命的な失敗をした時に、ゲームに勝利できないレベルにまで落ち込まないようにある程度セーフティーがゲームルールによって働くゲームを「ガードレールがある・ない」なんて表現したりするが、それによってゲームを評価する人もまたいるのだ。

そういった諸々の環境もあるのかはわからないが、少なくとも直接攻撃や仕事といった要素がない、しかし戦略性が高くゲーマー向けなゲームが昨今話題になっているのは確かだと思う。

ワーカープレイスメントが持つ戦略性

ワーカープレイスメントというメカニクスがさて、そういったところでどういう意味を持つのかを考える。

ワーカープレイスメントはアクションを取り合うメカニクスだ。ワーカーをアクションに配置することで、自分はそのアクションを行い、他人はもうそのアクションができなくなる。これはシンプルだが、すごく良く出来た処理だ。

なんでもそうだが、他人を邪魔をした時の見返りは基本的にない。相手の邪魔をしつつ、自分の利益を確保し、もっと言えば今回対象者ではないその他にもまた、影響を及ぼせられることができるなら。それで初めて自身の優位性が確立される。

陣取りゲームであれば有用な土地を確保し、自分だけがその利益を享受することで、他人との格差を広げる。そしてその状況をできるだけ長く保持する。これはそのゲームをゲームたらしめる要素だが、それによって抑えられ、まあようは腕の差でもって沈む人が出たりする。当たり前の話ではあるが、それを受け入れられるか受け入れられないのかはまた別の話だ。

ではワーカープレイスメントではどうか。ワーカーでアクションを実行することは、基本的に自分の利益だ。自分に得がある。それが同時に他人の邪魔にもなる。アクションの陣取りとも言える。この陣取りはラウンド中繰り広げられ、ラウンド終了で解除される。つまり、アクションが占領されるのは1ラウンドだけなのだ。次のラウンドではまた獲得のチャンスがある。

アクションを選択する、というゲームの1要素自体が陣取りゲーム的な楽しさを提供するのだ。

アクションの価値

さて、陣取りゲーム的楽しさと書いたが、陣取りにおける楽しさのキモは「その場所の価値」となる。戦略的価値であったり、地理的優位性、産出資源・・・まあ色々あるが、それを含めて1つ1つの場所の価値を考え、それぞれがこれを取り合うわけだ。

ワーカープレイスメントはこれをアクションの効果量や種類で提供する。

単純にアクションのコストが安いものから高くなる、効果が高いものから低いものになる、処理が違う、それらのバリエーションによって様々なアクションを提供し、プレイヤーはこれを取り合う。

アクションの効果量やコストは全て一緒でいいのではないか? と考えるかもしれないが、それは違う。アクションの効果量が違うことによって、明確な差が生まれて取り合いが発生する。プレイヤーによって優先順位が生まれ、戦略的な楽しさが生まれるのだ。

麦4つもらえる強力なアクションがあるが、今は牛が欲しい、けれども牛は他のプレイヤーが取らないと思うから今は麦を取ろうかな、いやいやしかし、なんて思考をしながらゲームをしたことはあるだろう。これこそがワーカープレイスメントの持つ陣取り的な楽しさだ。

奪い合うアクションの陣取りと、誰にも邪魔されない個人エリア

少し話が限定されるが、アグリコラなどに代表される、皆で取り合うアクション領域と、個人だけが触れる個人ボードに分かれるタイプのゲームについて考える。

ワーカープレイスメントはそれだけで戦略性があり、差し合いするメカニクスだ。この部分だけで、「他人とにらみ合う」という要素を満たす。で、あれば他の要素は個人のものとして切り離しても良い。

個人エリアではなにをしても良い。どう畑や家を広げようが、動物を飼うかも自由だ(もちろんルールで許される限り)。

これは楽しさの確保だ。自分だけに提供された領域、その中で自分の中で考える最適行動を考える。居間、自分に欲しい物を取るためにアクションを確保しようとするわけだ。そこには他のプレイヤーもいて、それぞれに欲しいものがある。結果、取り合う。ゲームデザインとして非常に生理的と言うか、自然な流れでゲームが組み上がっている。

それぞれが好きなことをやっているようで、その実、競い合っている。

勝利点数を把握しづらくする

上記の続きで、ワーカープレイスメントゲームではそれぞれのプレイヤーの獲得点数が分かりづらくなっているものがいくつかある。それぞれのプレイヤーが隠したり、終了時点で確保した資産を表にまとめて点数化したりといったものだ。

これはどちらかというとユーザーへの誘導に近い。それぞれの点数を隠すことにより、誰がリードしているのかわからなくする。一点に置いては彼が強いが、違う点では彼女が強い、といったような状況を作り上げることによって、それぞれが自分に集中してプレイできるようにする。

個人的にこれは、「相手を攻撃するよりも、自分を伸ばしたほうが得だよ」というデザイナーの声でもあると思っている。相手を止めるために自分にとってメリットがあまりにもない選択肢は、結局の所自分の首を締める。そういう設計になっているゲームには、この勝利点を隠す方式が多いように思うわけだ。

逆に、ワーカープレイスメントでもアクション数が少ないゲームでは点数が可視化されていたりするものが多いように思う。点数が見えていて、上位者がわかるから、それも踏まえて差し合いの楽しさへと付与しているのだろう。

相手を見なくてもゲームが機能する

ゲーマーズゲーム、というか極端な話、ボードゲームは人と遊ぶという性質上、「他人を見る」という要素は絶対だ。他人がどのように動き、何を考え、誰を攻撃したいと感じているのか。これを予想し、自分なりの良い行動を重ねていく。ゲーマー的に文章化すると、ボードゲームはそういう楽しみ方をするゲームだ。

パーティーゲームで全員が笑い、盛り上がるように皆に気を配り、場に即した答えを出す。これもまた他人を見る結果だ。その場の誰もわからない話題を振ったり、自分だけが面白い答えを出しても、ゲームは楽しくならない。

では他人を見て、総合的に自分の行動を決定し、戦略的にアクションを取っていくゲーマーズゲームはどうか。アクションや例外処理、コンボなど、ゲームとして難易度が高いゲームを初心者が遊ぶと、どうしてもそれがゲーム自体に大きな影響を与えてしまい、他のプレイヤーの行動をも左右することがある。どう考えてもそこで戦争をしかけるべきではないというポイントで、兵力を全て賭けた特攻をしかけられたり、作れるから、と本人にとっては価値のない場所に都市が建築されたりする。それにより良い影響を受けたプレイヤーが勝ち、悪い影響を受けたプレイヤーが負ける。そしてそれらの行動の理由は「なんとなく」とか「楽しそうだから」で、特に戦略的に考えたわけではない。そういう人と遊んだことがある、という方は多いだろう。

もちろん、そのプレイヤーが悪いわけではない。どうすればいいかよくわからず、結果として場を乱してしまっただけだし、そういったプレイヤーも楽しく、皆で誘導し合うのもまたボードゲームの楽しさであるからだ。

ここではアグリコラを例に出そう。極端な話、この作品で他人を気にする必要は一切ない。重ねるようだが、とにかく自分のしたいことをすればいい。羊が欲しいから羊を取る。自分本位の行動が、そのまま他人への妨害となり、また、逆に妨害される。この仕組がとにかくすごい。

これを繰り返していくと、気づくわけだ。羊が欲しい、けど牛も欲しい。羊は皆たくさんいるし、大丈夫そうだ、牛はちょっとどうなるかわからないから、牛を先に取っておこう、と。他人を見るという行動が自然と出来上がっていく。

そうやって、それぞれが自分のしたいことをした結果、アクションの先取りが発生し、戦略性が生まれ、ゲームとして進行していく。

そしてまた、熟練者が揃えば、それぞれの領地を見て、アクションを見て、カードを見て、数手先を読み、数ラウンド先まで見越して動いていく。この受け皿の広さ。それがワーカープレイスメントというメカニクスで成立していると私は考える。

ミニマムなワーカープレイスメントにもこの仕組は当てはまる

フルーツジュースを例に出そう。本作にはアクションとしてカードが出る。それぞれにわかりやすいアクション価値がつけられていて、自分にとって良いアクションを全員が行っていく。

他人がどういったフルーツを取ったのかはアクションによって分かりづらいので、微妙にカウンティングできるような、できないような、そんな感じだ。

最適行動をしていれば、ストレートに勝てるように見える。が、他人がワーカーを置いているアクションに自身のワーカーを配置すると、相手にカードを一枚差し出さないといけない。ここでジレンマが発生する。

また、連続して同じアクションもできない。

これらを踏まえ、それぞれのプレイヤーが各々の思惑で動いていく。

特に戦略を考えなくても、アクションは基本的にわかりやすく強力なものからほどほおどのもの、運を試すものとあるので、それを見つつ置いていけば、自分の利益が、他人の邪魔になっていき、ゲームとして一定の楽しさを提供させながら、ゲームはつつがなく進行していく。

ワーカープレイスメントはそれ自体が戦略性を提供し、ゲームに一定の楽しさとゲーム進行を確保する、凄まじいメカニクスだ。補助輪的とも言えるかもしれないが、昨今のゲームシーンに見事にフィットしていると、私は思うわけだ。


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